所詮は一泊二日、そんな考えでスーツを着込み、替えのシャツと下着だけパソコンケースの端に押し込んで大阪から新幹線と特急を乗り継ぎ、今愛媛県の松山市にいます。今回の旅の目的は、今日これから19時に乗松巌記念会館エスパス21というホールで行われる演奏会で、僕のバスクラリネットとピアノの為の曲"海のうた"が世界初演されるのに立ち会うためです。 当日の朝になってみどりの窓口で松山まで往復の乗車券を買い、新幹線で岡山までまずは向かいました。ちょうどお昼前とあって、駅で1000円以上する幕の内弁当を購入、小一時間の乗車時間に食べました。倉敷辺りを通過した頃会社から電話があり、昨日僕がまとめた書類に不備があるとかなんとかでちょっとみんなに迷惑をかけたことに気づかされたのですが、それも岡山から乗った特急しおかぜの車内から見た風景で一気にどうでも良くなりました。 そもそも瀬戸内海をまたぐことの出来る電車があること自体僕は知らなかったのですが、瀬戸内海に浮かぶ無数の小島たちに一つずつ触れていくように電車は四国へと到達したのです。この辺でかなりもう感動的だったのですが、そこから松山市までずっと瀬戸内の海を右手に見ながら3時間ほどの旅でした。倭は本当に美しい国です。3時間も景色を眺めていると、アメリカなんかだったらすぐに飽きてしまいますし、ヨーロッパでも田舎に行けば同じです。けれども、日本の風景というものは市街地だろうが郊外だろうが田舎だろうが非常に抑揚があり、音楽的に言うと展開や構成が非常に複雑なのです。 会社で今チームを組んでいる上司がよく言います。今回のプロジェクトは先の見通しが悪いから、帰って風呂に入っていても寝ていてもそのことばかり考えてしまって、不安が24時間続いているようだと。よく考えてみれば、普段の生活ってその対象が違うだけで、結構一つや二つのことをずっと考えながら過ぎていくものです。恋人のことばかり考えている人、食べることばかり考えている人、子供のことばかり考えている人、仕事のことばかり考えている人、僕みたいに音楽のことばかり考えている人、本当にその対象は十人十色の相対的なものですが、個人で見ればみんな何か一つのことで四六時中頭の中が一杯なのです。 ただ、自分が何のことを考えたいと思うか、そして現実的に社会的に何を考えなければいけないか、それらは大抵異なっているのです。中学校や高校に行っている間というのは、社会がこのことを考えていなさい、と考える対象をこちらから求めなくても与えてくれました。社会に出ると環境は似ていますが、与えられる対象のことだけを考えなければいけない責任はなくなりますが、社会からは考える対象を強要されるようになります。仕事をしているんだからこのことの全身全霊を捧げなさいと、暗黙の内に強要されているのです。そして無意識のうちに僕の上司のようにそのことばかり考えてしまって眠れなくなったりするんです。 けれど、働かなければいけない、なんて憲法かなにか知りませんが政府に決められている程度の義務でしかなく、本当に一人の生物としてそれをしなければいけないという義務は、本当はありませんよね。山奥で自給自足して社会に迷惑をかけないなら、別にそれの何が悪いのでしょう。それの何が社会的に劣っているのでしょう。どうしてそんな生き方に自分が一歩足を踏み出すことが出来ないのか、それを考えてみるとやはり自分から"こういうことを自分の人生ではずっと考えて心を一杯にしたい"という自発的な感情を感じることを、社会から強要されるテーマに流されてしようとしなくなってしまっている自分がいるのです。 一消費単位として主体性を持たずに生きることを僕は否定するつもりはありません。それはその人が自分で決め、願った人生です。それは他人の僕がとやかく言うことではありません。しかし、作曲の世界ではこの"自分から望んでこういう世界を心一杯に広げたい"という欲求、そしてそれを実行することの出来る精神的哲学的な技術というものがどうしても必要なのです。これが出来ない人の音楽は、所詮誰かの焼き直しでオリジナルではありません。オリジナルというのは、社会から与えられるものを受け入れるだけの人生ではなく、社会に数多ある可能性の中から自分の意志で一つを選ぶ勇気と決断力なのです。 今回は仕事の途中で無理矢理休みを取って旅に出ましたが、今の段階ですでに松山に来て本当に良かったと思います。言ってしまうと、僕自身、ここ数ヶ月の生活は社会から与えられたものに従う受け身の生き方をしていました。今まで主体性の固まりのような人生を生きてきた自分にとってこういう時間も必要かなと思っていましたが、しかし社会とは恐ろしいものですねえ。一度受け身になってしまうと今度は主体性を取り戻すのに本当に苦労するというか、まるで受け身の生き方がすべてであるかのように錯覚してしまうんですね。けれども、きっとそういう暗黙の概念的な組織性こそが、社会という一生命体を形作っているのでしょう。要は自分がそこで一つの細胞として精一杯生きるのか、あくまでも小さくても一個体として生きるのか、それだけのちがいです。
by Alfred_61
| 2008-10-08 17:25
| 日記
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