![]() 自作音楽関連リンク
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
|
1
昨晩は半年ぶりくらいに2人で会社をされている友人両名と飲んで歌ってしました。おかげさまで二日酔い・・・。なんか、最近もう自分って若くないんだなと思わされることが多いです。 それはそれとして、二人の話を聞いていると、なんだか未来へ向かう強いエナジーを感じました。学問や芸術でも同じですが、成長しているときの人ってやっぱり同じようにエナジーに溢れていて、変な話そのエナジーをつかみ取ることや纏うことが出来ない人はどこまで行っても大きく成長することは出来ず、結局の所は変わらない自分と変わっていく社会のズレに消えていくジリ貧の未来しかないんですよね。 こういうことをきっとやってやる。二人は前を向いてはっきりと言っていました。ホント、僕も負けてられないなと純粋に感じました。そんな話になってきた辺りから、あんまり飲むつもりはなかったのにどんどんお酒が進んでしまってね。 いくら可能性を持った人でも組織でも、未来へ向かうブースターを持っていないなら結局現状から下降していく未来しかないんですよ。ブースターを持っているなら、あとはそこに火を入れるだけ。失敗することなんて大したことではないんですよ。そんな下らないことよりも、挑戦をするという第一歩を踏み出せるブースターを持っているかどうかなんです。やってみて失敗するならそれはそれ。結局やってみた努力や挑戦のエナジーがあれば、失敗が次の成功へ繋がって行くものです。 8/10くらいまで僕は生計を立てるための仕事が忙しすぎて首が回りませんが、そこから先にある程度まとまった休みがあるので、そこで12月の予定を一気に立ててしまいます。そして、出来るならば2、3日に1回は1人でスタジオに練習に行こうと思っています。8月には引っ越しが待っていますが、そんなものに振り回されている場合じゃないですね。僕のブースターにもとっとと火を入れて、未来へ向かって進まないと。ジョンも待っていることですしね。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-31 23:55
| 日記
一人きりで音楽を演奏することは、当然ながら他に頼るところが無いから自分の音一つ一つの粒が良いか悪いか問答無用で具現化されてしまいます。リズムがずれる、音程がずれる、音色に張りが無くなる、気持ちが入らない、そういうことは僕自身が中之島バラ園でヴァイオリンを弾いていてまあ日常的にあることです。 でも、何にも頼ることが出来る自分一人しか世界にいない、というソロ音楽の世界には、足場が全くない反面完全なる自由が演奏者に与えられるのです。僕は中之島で良くバッハを弾いていますが、バッハを"どういう風に弾くか"なんて、僕一人しかいないわけですから完全に僕の自由なのです。別にそれがダンスのリズムだからダンスらしく演奏しないといけないとか、時代背景を考えると運指やアーティキュレーションがこうでなければいけないとか、もっと言えば僕個人がやっていることは例えば音符の長さが四分音符が必ず四分音符の長さでなければいけないとかさえも、実はぶち壊した演奏をしています。 しかし、そこにはルールに対するアンチテーゼではなく、僕が"こうしたい"と思うものがそのまま存在しているだけなのです。だから、昨日弾いたパルティータ2番と今日弾いたパルティータ2番は最早全く違う地面の上で演奏しているようなもので、下手をすると違う曲だと言われてもおかしくないほどの違いがあります。これをアンサンブルでやるのは至難の業で、これを誰かが言い出すとバンドもアンサンブルも結束がほどけていきます。 アンサンブルにはアンサンブルにしか出来ないことがあり、それは意外と広く社会にも知られ認められています。でも、ソロであるから、下手をすると単旋律であるから出来ること、というのが実は無限にあるということはあまり認識されていなかったりします。ソロというのは孤独であり誰にも頼れない反面、とてつもなく大きな自由がある音楽形態なのです。 僕は元々ソロでいることにあまり違和感を感じないタイプで、即興演奏なんて全く何も考えなくても出来ますし、それは技術云々ではなくて僕の性格がそうなんだと思っています。人前で演奏することも、僕としてはどちらかというと客対奏者という相関図が無い状況の方が自由にやりたい音楽を自分が納得できる形で表現できたりするのです。 昨日、いつものように僕はバラへ向かってErik Satieの"Je te veux"のヴォーカルパートを弾いていました。ヴォーカルパートのメロディーだけなので、伴奏とリズムを合わせる必要も無ければ、どうしてもワルツのようにリズミカルである必要もないのです。で、その日はなんとなく良い気持ちで弾いていたのですが、弾き終わると僕の傍らに知らない間に4歳か5歳くらいの男の子が立っていて、曲が終わるとぱちぱちと手を叩いてくれました。もちろん他に人が拍手をしているからしたわけではなく、そこでそうするものだと教えられるにはまだ幼すぎ、けれども1分くらいですから結構まともな時間、手を叩いてくれました。だってその間に男の子の後ろを何人もの大人が通り過ぎていったのですから。手を叩く男の子を訝しげに見ながら大人は通り過ぎていきました。 僕の音楽は、そういう音楽です。僕はその男のためにその曲を弾いたわけではありません。自分がその日その場所で感じることを全力で、音楽と一対一で向き合って表現しただけです。結果として、今回はとある男の子がそれを偶然その場に居合わせて聴いていました。そして、理性云々に縛られない無垢な心で拍手をしてくれたのです。彼の心に、僕の演奏が何らかの形で残ってくれれば良いなと、僕はそれだけ思って軽く男の子へ会釈だけしました。 僕は生きたいように生きているだけです。それが結果として人を幸せに出来るなら、それが僕の音楽があるべき姿だと思っています。そして僕の人生も、それと同じだと思っています。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-18 23:55
| 音の考察
自分がこれから進もうとする道を探すには、どうしても人としての"教養"が必要となります。やりたいことはあるけれどもどうやってそれをすればいいか分からない人、やりたいこと自体を探したいけれどもどうすれば分からない人、そういう人はまず自分のやりたい分野に限らず人としての自分を磨くことを考える必要があると僕は考えて生きてきました。 例えば音楽をやるのにワインの味が分からないというのは一般的に考えればどうしても必要なことではありません。しかも、"あればベター"という事柄の中でもこれはそんなに上位には来ません。よっぽどジュリアード音楽院を卒業しているとか、有名な先生に習ったとか、そういうことの方が音楽をやるためには"あればベター"なことの上位に来るのです。社会一般の常識という架空の物差しでの話でしか所詮はありませんが。 でも、何をするにしても、それこそ優れた営業マンになりたくても、優れたシステムエンジニアになりたくても、優れた料理人になりたくても、優れた理髪師になりたくても、優れた教師になりたくても、結局の所はその人が"人として優れているか"という所が究極的にはポイントになってくるわけで、技術や作法ははっきり言ってしまえば誰でも勉強すれば身に付くのです。でも、ワインの味が分かるかどうかというのは勉強しても分かるかどうか、味覚の発達レベルにもよりますがそれ以上に感性や直感、アイデア力などを量るには結構有効なポイントだったりすると僕は思います。だからアメリカに住んでいた大学時代に、現地では日本よりも安くて良いものが手に入りやすかった為に沢山ワインを飲んで自分で色々と学んでいきました。 "ワインの味が分かる"という能力がお金に直接繋がることは日本人である以上は可能性的に限りなくゼロに近い狭き門です。でもこの能力を持っているから開ける道は必ずあります。具体的に直結する結果はなくとも、感性を鍛えるという"教養"レベルで自分を磨くことは必ず自分の可能性を広げることに繋がると僕は信じています。 専門分野のことしかできない、というのは少なくとも音楽家にとってはどちらかというと弱み以外の何物でもないと僕は個人的に考えているので、僕は色々なことをして、色々な人に会い、色々な国を見て色々なことを経験してきました。そして自分磨きはこれからも当然死ぬまで続けることの一つです。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-17 23:55
| 日記
最近ちょっとまとまった休みを取れているのですが、まあ引っ越しなどの準備で結局忙しいことに変わりはありません。睡眠時間がしっかりとれていないのも、子供がまだ小さいので仕方のないことです。僕は元々非常に眠りが浅いので長時間眠らないと疲れはとれないタイプなのですよ。 しかし、それでも毎日生計を立てるための仕事をしながら自分のやることもやり家庭での仕事もこなしつつ生活しているのが当たり前だったここ半年を考えると今は実に久しぶりに色々考えなくて良いことは放り出しておける位の余裕があったりします。でも、そんな多少時間に余裕がある生活をしていて、音楽制作や活動は捗るのですが、同時に考えなくて良いことをぐちゃぐちゃ考えてしまう癖のような物を自分の中に感じる時があります。 多忙慣れ・・・と言っていいのでしょうかね。あれこれ考え、他人のことを心配し、今後を憂い、ああもうこうやって列挙していくだけで本当に下らない、僕が考えなくても良いことばかりですよね。社会なんて別に僕という歯車が一つ無くなる程度で機能不全になったりしないものです。僕は今状況的に歯車として機能しなければいけない責任や義務から解放されている状況なので、"一社会人"という単位でなく"一個性"として生きることが出来るはずなのですが、それなのに頭が"一社会人"として考えるべきことばかり考えてしまうんですよね。本当にバカらしい。それを放棄できる時間を手に入れるために今の立場を作り上げたのに。 2012年は人生の谷を一つ二つ越えてある程度自分がやるべきことを見つめて実行できる余裕ができはじめる年です。年末(年内)に向けて今は色々と準備を進めています。年末にやる音楽活動は一つ、僕自身が来年度から仕切り直して再び前を向いて歩き始める為に大事なマイルストーンになると考えています。やっと"一社会人"として必要以上に背負っている物を少しずつ切り捨てていっているのですから、自分の心の持ちようも改めて洗濯するというかリセットするというか、元々"一個性"としての生き方しかしてこなかった自分をしっかりと思い出し、自分があるべき姿へとシフトしていかなければいけないと思います。 来月に引っ越しをしますが、そもそも引っ越し先に2年もいるのかな、と個人的には考えています。僕は大阪という街が非常に好きですが、次のステップに自分を含め家族全員の人生を進めるためには、この街をもう一度離れてみるのも良いかなと考えています。また社会での立場も何もかも一から作り直しですが、今度は必要に迫られたり、自分が自分らしくあることを社会に対して隠したりしなくても良いような立場を確立したいなと思っています。だからこそ、多忙慣れして下らないことを考えている暇はないんですよ。そんなことに時間をかけてもただ人生をドブに捨てているようなものですからね。無駄に見えることでも一つずつやって、コツコツ次への道を作っていかないと。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-16 23:55
| 日記
僕が今書いている曲のタイトルは"Ground Breaker"、その名の通り音楽的な意味でも自分が今まで当たり前のように立っていた、そこにあることが今まで当然であった地面をぶち壊すことを色々としている曲です。 同じ立場が安定して続く、ゆりかごから墓場まで的な考え方は僕の人生にはありません。資産となる不動産なんかに絶対に手を出さないのがその主となる理由です。賃貸物件を点々とし、基本的に同じと頃に5年なんて長い時間いたくはないんですよ。 自分が手がけてきた生計を立てるための仕事も完全にピークを過ぎ、これからはゆっくりとでしょうが下降していくしかないのはまあ誰が見ても明らかです。僕自身の生活や人生も去年今年と激動のように色々なことがありましたが、今年の夏で一旦それらも落ち着きそうです。僕は年齢的にまだ30代に入ったばかりですが、両親なんかからはその豊富な人生経験を教育などで社会に還元すべきとのことも言われます。 どうでしょうね・・・アメリカに戻って2年かけてMaster(修士)までの学位を終わらせて来ようかとも考えています。Masterまで持っていれば最低でも何かアカデミアの力を借りて物事をすることも可能です。ただ、そこに力を借りたくないからMasterをやらずに帰国したのですし、その時の感情は未だに僕の中にあります。ただ、それはそれで自分が今立っている地面をぶち壊すには一つのエキサイティングな方法だとも思っています。 日本で教員免許を取ったりするのも面白いでしょうが、結局はこの国にいる以上"こういうやり方で教えなさい"という教育要綱に従って淡々と同じことを毎年繰り返す、"一個性"ではなく"一教師"にしかなることが出来ないのは火を見るよりも明らかなことです。なによりも、僕は"習いたい"とも思っていない学生を教えることに何の興味もありませんし、使命感なんて持てると思っていません。僕は元々教師に向いていないので。教育者には向いていると思いますが、教師には向いていません。 今はまず年内に大阪でのSOUND GATE ZEROのライヴをすることを目標に日々寝る間を惜しんで曲作りなどをしています。大阪の街でジョンと僕が本当にやりたいと思っていることを1つ形にして人々の前に発表することはその次の僕たちの音楽人生にとっても意味のあることになるでしょう。Ground Breaker(Piece 10)は非常に順調に制作も進んでいます。自分の向かう方向がやっときっちりと理解でき、そちらへ向かうことが出来る環境状況が僕にやっと整ってきたのです。とりあえずは自分の立っているこの地面をぶち壊します。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-11 23:55
| 日記
梅雨の谷間に1日だけ、平日の午後4時頃から中之島バラ園で2時間ほどヴァイオリンを弾きました。いつもの場所でいつものようにウォームアップから弾いていたのですが、今回はそもそもバラ園に人がかなり少なく、僕としては行き交う人つまりは聞き手を意識した演奏ではなく、かなり自分の世界へどっぷりと浸かっていた2時間でした。 思い返してみると、恐らくは何か用事があるのにわざわざ僕の音が聞こえるベンチに座って空を見上げるような姿勢で目を閉じたまま1曲聞いていったサラリーマンもいましたし、バラ園の内側にあるベンチにいたベビーカーと女性もいました。先月なんかは結構週末の夜に演奏に行くことが多く、どうしても聴く人のことを意識した選曲や演奏になっていたと、今回の演奏のあと気づきました。 "・・・僕がここでヴァイオリンを弾くようになったのはどんな理由からだったっけ?" 僕はそもそもヴァイオリニストではないので、人前でステージに立てる腕前なんて持ち合わせてはいませんでした。でも、技術は拙くても、どうしても音で表現したいと思える強いモノが心にあったから、僕は当初は中之島公会堂の前でヴァイオリンを弾いていたのです。気分的にはただ野外で練習しているだけ、でも当然行き交う人々には僕の音は届く所で僕は音を奏でていたのです。 自分を納得させたかったのが一番強い理由だったと思います。不条理な理由が続き、僕の音楽人生は全然思い通りに行かず、生計を立てる為の仕事さえも失い派遣業などを点々としていた頃でした。音楽大学にいた頃はヴァイオリンのレッスンに行くのは苦痛以外のなにものでもありませんでした。作曲とオルガン演奏で手一杯だったのに第二楽器としてヴァイオリンをやるなんて、無茶だと分かってはいたのですが同時に妥協してあとで後悔したくなかったのです。結果として、あの時きちんとレッスンで基礎を教えて貰っていたから、今は自分の試行錯誤で自分を表現できるだけの音が出るようになりました。 ある時、「エエ音するなと思ったら生演奏やったわ~アハハハ」と僕の後ろを通っていったオバチャンがいました。それは僕が狙って求めた目標ではなく、単純に自分のやりたいことをやった結果として僕の音楽を受け取った側が偶然口にしてくれた言葉でした。当然ながら、僕が演奏している所を通る人たちには何故僕がそこでヴァイオリンを弾いているのか、全く分からないと僕は思います。ちなみに、僕は道の端から行き交う人に向かって演奏しているのではなく、バラが植わっている方向を向いて演奏しているのです。つまり、行き交う人々には僕の背中しか見えません。 それが社会を拒絶しているように感じる人もきっといるでしょう。少なくとも大道芸としてお金を欲しくて演奏しているのではないということはほぼすべての人が感じているでしょう。僕の演奏している姿を見ても、例えお金を渡そうと試みても、必ず曲の合間に僕に話しかけないと"受け皿"的なモノを僕は一切身の回りに置いていません。まあ、そのせいか話しかけてくる人も少々いるのですけどね。大抵は僕が愛想のないことしか言わないですぐに演奏に戻ってしまうのでそのまま通り過ぎていきますが。 僕の音楽が向かう先には、バラと空しか、実はないのかもしれません。この活動が自分の人生を音楽を豊かにすることはあっても、これによってミュージシャンとしての社会的立場が変わったり評価を受けるわけではありません。もちろん、お金が儲かるなんてまああり得ません。今回の演奏のようにひたすら時間も雑踏も忘れて演奏に没頭出来ると、理性というテーブルに乗っている目的なんて概念も自分の音楽からなくなって行きます。多分、僕が本当に手に入れたいのはその感覚なのです。そこには僕にも理解できない僕の音楽があるからです。 ■
[PR]
▲
by Alfred_61
| 2012-07-03 23:55
| 日記
1 |
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||