今日、僕の思い人からある告白を受けました。去年の9月頃、当時のルームメイトだった女の子と喧嘩をした彼女は、それまで「遊びにおいでよ」と言っていたとある男友達の家にたどり着きます。そして「違う部屋で寝るから心配しないで」という彼の言葉を信じ、彼女は彼のベッドで独り眠りにつきました。 しかし彼は内なる衝動を止められずに、彼女を無理矢理に犯しました。そしてコンドームもなしに中だしされた彼女は、次の日の朝に急いでアフターピル(即効性避妊薬)を入手し、最悪の事態だけは免れました。そしてその一件から半年後の今になって、やっとそれを僕に伝えてくれました。 彼女のせいではありません。憎むべきは男の性で、僕に出来ることははっきり言ってありませんでした。彼女はその一件以来それを忘れようと、出来るだけ男性とも接触を断っていたそうです。その中に、僕も含まれていました。 僕がその話を聞いて下した決断は、やはり彼女との決別でした。彼女がそういう馬鹿な過ち大課したそれ自体よりも、その一件によって変わってしまった彼女を僕は酷く辛く感じました。純粋に人を信じ、人を助け、まるで天使のようだった彼女が、その一件以来まるで僕の周りにいる女性達と変わらないようになったのです。 もうすでに僕は二本目の赤いワインを飲み始めています。赤ワインの味は僕にとって悲しみの、涙の味であり、決して幸福や歓喜の味ではありません。そしていま、この味の中で僕は涙を流します。誰かを信じることはとても辛いことです。そしてそれが報われなかったときはすべての苦悩や想いがあふれ出て、何とも表現できない想いに心が溢れかえってしまいます。 そう、これはまるで僕がよく見る夢のよう。僕は常に純粋に誰かを想い、純血を守るのですが、周りの全員が次々と目の前で死んでいくのです。僕はもう若くはありません。今更自分の生き方を変えられる事はなく、今のまま傷つく役目を、または人が死ぬのをすべて独りで見ている役目を神様に与えられているように感じます。 僕の人生は誰かの失敗を成功の側から常に見ている・・・そんな状況ばかりでした。そしてどうやらそれはこれからも、僕の人生のカルマとして続いていくのでしょう。 #
by Alfred_61
| 2005-05-24 10:55
| 日記
今日は僕の女友達の日本人とちょっとした打ち合わせを兼ねて会食をしました。そこで現代人の陥りやすい受け身の思考について話をしました。 現代には情報が溢れ、例えば歴史一つとっても10年前よりは10年分多く勉強しなくてはいけないわけです。しかも事細かな記録が可能な時代ですから、勉強する意味のあることもないことも沢山読んで聴いて調べなくてはいけないわけです。で、あまりにそれが膨大な量であるために、いつの間にか「知っているか知っていないか」が価値基準になったり、例えそれが公に明言されていなくても「質より量」が世間に求められているように感じたり、そして一番よく分からない「若くして勉強を終えること」に訳の分からない尊敬をみんなが感じたりするようになってしまいました。 彼女が言っていました。「幾ら情報量が増えても、人間の能力には限界がある」と。そして情報の氾濫の為に24時間で自分が活動できる時間をほとんど情報処理に当てるのが、現代の学識界で求められることなのです。それが分野によることを踏まえての話ですが、そういう状況ってただ与えられた既存のデータを自分が受信しているだけで、別に自分の中から何かを発信しているわけではないと僕は思います。 例えば僕のいる作曲の分野では、やはり沢山書くと言うだけで良い評価を得ている人間が沢山います。いつか僕の母親が「池辺晋一郎は一年で相当沢山の(具体的な数は忘れましたが)曲を書いているそうよ。プロになったらそれくらい出来なくちゃね」と僕に言ったことがありますが、それってなんだかおかしいですよね。いつの間にか音楽を判断するべき「良いか悪いか」がどこかへ行っちゃって、「多いか少ないか」が僕の母親にとっては作曲家を見る基準になっていた訳です。 人にはそれぞれ生まれ持った人生のテンポがあって、それが速いから凄い、遅いから劣っていると言うことはなく、それらはただの個性でしかないのです。そして無意味にプレッシャーを感じて早期の成功を求めたり、全然身に付いていないのに点数だけ取って勉強を終えたり、そういう生き方は自分の個性を磨く事には絶対に繋がらず、極端に言えば時間をただ捨てているだけなのかも知れません。 僕は思います。人間は一人になって、外的情報源を時にシャットアウトし、自分の内から湧き出る感情や衝動を噛みしめる時間が必要なのだと。先生に常に答えを与えられ、テレビ番組が言うことをすべて鵜呑みにし、そして自分で考えることを放棄する。それが現代人の陥りやすい一種の退行行為だと思います。何故退行かというと、それは絶対に創造には繋がらないからです。情報を取り入れることは大切なことですが、それ自体は何も生み出しはしません。生み出すという行為は情報を得た個人が、得た情報に対して自身がどう感じるかをしっかり理解でき、それを実行するという事でのみ達成される物だと思います。 自分がどう思うかも分からないのに、何かを創ろうだなんて馬鹿げています。そして最後に、どうやって自分がどう思うかを理解することが出来るようになるかは、絶対に学校では教えてくれません。それぞれが自分で見つけるしかないのです。 #
by Alfred_61
| 2005-05-23 14:50
| 日記
やっぱりテレビなしの生活が続いているからだと思うのですが、最近考えたり思い描くことがとても多くなっています。明らかに夢も多く見るようになったし、人の心配やなんかも今まで以上に深く感じるようになってきました。テレビを見ている時間って言うのは全部他人任せにして自分は受け身になれるために、リラックスという意味ではかなり良い時間を過ごせますが、僕のように創作の仕事を手がけている人間にとってはあんまり受け身ばかりでは駄目なのだなと感じます。 そして最近、遙か遠くに住んでいる僕の思い人の事を良く考えます。今何をしているだろうとか、何を食べているだろうとか。気になって仕方がないと言う感じではないのですが、頭の中に思い浮かべる事が多くなりました。そしてその人への自分の気持ちも、その度に再確認出来るようになってきました。 こういう状況をそれなりに充実していると言うのでしょうか。そりゃあやらなければいけないことは幾つも山積みになっていますが、少しづつでもそれをこなしている実感と、合間に思い描く彼の人への想いが今の僕の生活を80%ほど占めています。でも同時に、最近よく疲れるようになったと思います。やっぱり脳みそをよく使っているからでしょうか。眠っても眠ってもまだ眠い感じが毎朝あります。 誰かを想うことは時には辛いですが、こうやって普段何かに縛られていた時間を想う時間に当てると結構気持ちよく誰かを想えるみたいです。自分の人生が一杯一杯で苦しいから誰かに縋りたい、もしくはその状況から逃げたいと感じているときはどうしてもネガティヴな意味で誰かを頼ってしまいます。そしてそれは相手にとって負担にしかならないと僕は思います。人にネガティヴな意味で想われるは嫌ですし、誰かにそういうプレッシャーを与えるのも僕は嫌です。 純粋に誰かを想えている今は、やっぱり人生が充実しているのでしょう。辛いことも、満たされないことも、どこかでその貴重な一時を喜べるようになるには、やはり自発的に物事をよく考える事が必要なのかも知れません。取りあえず7月にフランスへ行くまではテレビなしでじっくり作曲とフランス語の勉強をしようと思います。 #
by Alfred_61
| 2005-05-22 14:46
| 日記
何度目でしょうか、結果が同じになる夢をよく見ます。今日は妙な感じでした。夢は二つのセクションに別れていて、一つ目はある目的地にたどり着くまでの話で、もう一つはそこから必死で逃げて帰るものでした。 一つ目は何故か見知らぬ、でも状況では知っている事になっている同年代の女の子と電車に乗っています。彼女は僕とは違う目的地を目指しているのですが、途中まで同じだからと言うことで同じ電車に乗りました。しかし、頭にしっかり道筋を覚えていたはずなのに僕は乗る電車を間違います。そしてそれは彼女をも巻き込んで、二人でどちらの目的地でもない場所へと向かう沿線に乗っていることに途中で気づきます。そしてそこから乗り換え地点へと引き返す辺りで最初のシーンは終わります。 二つ目は僕が一人である不思議な宗教のセミナーに参加しています。自分で興味があり、経験だと思って自分の足でそこへ来たのは分かるのですが、セミナーが続くにつれて少しずつ違和感を感じ始めます。ある大きなビル、角度によっては何故か僕の通っていた大阪の小学校にあった一つの校舎に似ているのですが、そこの屋上で数百人の白人に紛れてアジア人の僕がセミナーを聴いているのですが、顔も見えないし誰かも分からない講師の言葉が少しづつ参加者を催眠か何かにかけてゆくのを僕は誰よりも早く気づきます。 気づいたときにはすでに他の全員の参加者は催眠にかかっていて、全員が「異端者」の僕を排除しようとうつろな目でゾンビのようにゆっくり、でも確実に押し寄せて来ます。僕は必死に逃げるのですが、これまた不思議なことに階段で階を降りていく間に、その夢の状況とはかなり関係のない種類のグループを、反対の上り階段に見つけます。彼らは催眠にかかっていないのですが、僕はそれよりも自分の身を案じて逃走を優先します。 またおかしな事に、そこでシーンが一度逆戻りします。次に気づいたときはまた例の屋上で、ちょうど僕がセミナーに到着した時間という場面になります。一人の白人男性(同い年かそれ以下の少年?)と、何故か作曲の話をするのですが、僕が言いたいことを言い終わる前に催眠が始まり、今度はみんな一同に屋上の縁へと向かい、そこからボトボトと下へ落ちて行きます。「みんなで自殺をしましょう」という感じの催眠だったのですが、またそれにかからないのは僕だけで、その場から恐怖のあまり逃げ出します。しかし今度は顔も見えない催眠の講師が凄い勢いで僕を追ってきます。そして階段を下りる最中、再び関係のないある人のグループを反対の階段に見、僕はその後突然、人生の大半を過ごした大阪郊外の街にいます。あともう20メートルくらいで旧家(今は僕の兄夫婦が住んでいて、僕の住所地ではない)にたどり着くと言うところで幾ら走っても足が前に出なくなり、必死に躰を前方に傾けながら前進していく所で目が覚めました。 状況は全く違うのですが、僕はこういう感じでたった一人生き残る夢を何度も見たことがあります。今回の物もそうですが、いつも周りの友人や人々に襲われるもので、でも最終的に僕が死ぬことはないのです。一体これらの夢にはどういう意味があるのでしょうか? #
by Alfred_61
| 2005-05-21 00:53
| 日記
先日友達にある合唱の作曲家を紹介されました。ペロタンという変わった名前のフランス人で、14世紀にパリで成功した作曲家だそうです。平行旋律(オルガヌム)という方法でそれまでの単旋律曲を多声曲にした人だそうですが、その代表曲の一つを聞かせて貰いました。 なんでしょうか、とても奇妙な感覚を感じました。その友達が「お前がペロタン知らなかったとは思わなかった」と言ったのですが、正直言って自分でもそう思いました。僕が好んで使う作曲法のオルガヌムとこの作曲家のオルガヌムは非常にそっくりなのです。そう、もちろんペロタンの方が昔の人なので、僕が「影響を受けた」と言われても全然不思議でないくらい。 はっきり言って、その録音を聞かせて貰うまでそんな作曲家がいることさえ知りませんでした。そして考えてみれば「知っていなくてはならない」と言われるアカデミア(学識社会)の常識は創造の分野においては全く意味を持たないのだと確信しました。ペロタンを知るまでオルガヌムを全く使っていなくて、しかも考えつきもしなかったのなら、そういう物があることを学ぶべきだったのでしょうが、僕には全く必要のない知識だと思いました。 知っているか知っていないかが芸術の価値基準になることはあり得ません。いつの間にか音楽の分野はそういう学識傾向が強くなってしまって、結果的に新しい才能をぶちこわし、くだらない「世間の望む曲」しか書いてはいけない状況を作ってしまったのです。 例えば、ウチのおかん(母親)が握るオニギリと、誰でもない友達が握るオニギリがどうして違う味に感じるか、そういう所にどうして価値基準を見いだせないのでしょうか。ご飯は握りすぎると強くくっつき、水分を外へ逃がせなくなります。さらに軽く握りすぎると、すぐに水分が逃げてしまってパラパラと崩れてしまいます。母親が子供を想って握るから、強すぎず軽すぎず、適度な握り具合になるわけです。 当然、その辺のおばちゃん方がそんな風に分析して考えているはずもなく、愛の種類で最も確かで強いとされる「母の愛」のみで結果的に最高の味を生み出すわけです。愛なくして本当の美味を求めることは出来ません。もしそういう場面で「貴方はオニギリの握り方を知らないから駄目だ。貴方のオニギリが美味しいはずがない」と言う人がいたら、一度見てみたいものです。 #
by Alfred_61
| 2005-05-20 16:16
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