先日、それまで二年半過ごした学営アパートからダウンタウンにある民営のアパートに引っ越しました。以前の場所は随分居心地が良かったのですが、次の場所がとてもいい条件で見つかったので引っ越しを決めました。本当にダウンタウンの裏手にあり、歩いて2、3分でメインストリートに出られる便利さです。学校からは少し遠くなってしまったのですが、生活という意味で言うと前のアパートより数段住みやすい環境です。 何より見た目が凄く良いのです。大通りから路地に入って、映画に出てきそうな鉄製のファンシーな屋外階段を上った先に僕の部屋があり、そこからダウンタウンが望めるようになっています。月の家賃がその状況で470ドル、水道代が含まれています。 まだ電話もインターネットもケーブルテレビも通っていなくて、今は僕の部屋の下にあるトルコ料理屋"Turkuaz Cafe"からこの記事を書いています。この料理屋の店主がすばらしい人格者で、9つあるアパートの住人ならいつでもTurkuaz Cafeに来てワイヤレスインターネットを使わせてくれるのです。でも、さすがに一時間ごとにネットだけ使いに降りていくのもなんですので、電話が来たらすぐに部屋にネットを繋ごうと思っています。 久しぶりに社会と少し切り離されたような状況にいるのですが、以外と誰からも電話がかかってこなかったりメールを確認できなかったりするのは気分が良い物です。しばらくはこのまま一人で落ち着いて生活する状況を続けて、一ヶ月位したら他の物も整えようと思います。特に作曲に集中できる時間が一気に増えたのはとても嬉しい事です。テレビがあるとか、メールをチェックしなくちゃとか、そういう小さな事でもコンセントレーションの妨げになるものです。 出来れば次の記事でTurkuaz Cafeや僕の部屋の外装などの写真をアップしたいと思います。いつの間にか麻痺して忘れていましたが、僕は海外に住んでいるんだと何となく実感させられる環境です。 #
by Alfred_61
| 2005-05-10 02:02
| 日記
俗に言う「気持ち悪い音楽」、十二音技法という作曲法で音楽を書いていた作曲家アルバン・ベルグが22歳の時(1907)に当時の恋人に贈った歌があります。題名はSchliesse mir die Augen beideと言い、一分足らずの小さな歌曲です。今日何となくこの曲を聴いていて思うことがありました。 彼が22歳の頃、まだ十二音技法という作曲法は知らず、純粋にそれまでのロマンティックスタイルで書かれたこの曲は、その年齢相応の若々しさ、純粋さ、未熟さがすべて表れています。自分の気持ちを表現する、ただそれだけを目的としている為に長さも全く意識せず、書きたい物を書きたいだけ書いているその姿勢は本当に音楽を楽しんでいた頃のベルグを感じさせます。 でも、大人になり、第二次世界大戦の風潮を受け十二音技法という非調性的(気持ちの悪い)作曲法を受け入れ、彼は1925年(40歳)になって全く同じ歌詞の歌曲を十二音技法で書いています。そこには純粋さも楽しみの心も忘れてしまった別人のベルグがいるのです。学術的に考えればより表現が強くなった(Expressionism)と言われるのですが、そこに表現されている作曲家の心の有り様は、もう失っては行けない物を失った中年でしかありません。 最近、僕は自分が不思議にベルグのように純粋さを失ってきているように感じることがあります。今まで純粋に心から信じられた人をふと疑いたくなったり、良くしてくれている友達のちょっとした行動を不快に思ったり。今まではそんなことには全く意識が行かなかったのに、いつの間にかそんな不純な思考をするようになっていると思うのです。 自分は弱い人間だと思います。自分に規律を課して背筋を伸ばした生活をしようとするのですが、どうしても時々精神的に負けそうになります。そういう時ほど誰かに縋りたくなったり、恵まれているはずの今の状況を呪ったりするのだと思います。こういうときは一人で部屋に閉じこもるのが結果的に間違ったことをしないで済むので、しばらく人前でも静かにしていようと思います。 純粋さは、一度失うと二度と取り戻せない物だと思います。それはちょうど、知識の実を食べたアダムとイーヴが二度と楽園に戻れなかったように。僕はそうなりたくないと思うのですが、いつ誘惑に負けてもおかしくない自分を限りなく不安に感じます。 #
by Alfred_61
| 2005-05-06 13:11
| 日記
今週末に新しいアパートへ引っ越す為、今日は一日部屋の片付けをしています。机の中を片づけている時、ある面白いものを見つけました。それはアメリカの大学に出願する時に日本の高校で作ってもらった僕の成績証明でした。開封無効の文字と共にピッチリ閉じられたままの封筒を見、それが今となっては不必要なものであることを理解した上で何となく開封してみました。 不思議なもので、高校の時の成績ってかなり悪いように見えました。高校に通っている頃は詰め込み教育の権化のようなシステムのもとでほとんどやる気もなく、ある程度で良いやと手を抜いて勉強していました。特に僕は高校時代のほとんどをロックバンドの活動で費やしました。音楽を本気でやっていく内に、勉強なんて二の次だと思っていました。成績では測れないもっと人間的な部分で大きくなりたいと心から信じ、同時に社会の求める成績からは興味が逸れていました。 今、アメリカの大学に来て3年が過ぎましたが、僕の成績はほとんど満点に近く、どこに出しても恥ずかしくない物になっています。アメリカに来てからは本当にやりたい勉強が出来ている実感と、アメリカでの限られた時間を無駄にしたくない気持ちで、それまでしたことのないくらい本気で勉強という物に打ち込んで来ました。でも日本人として、高校より大学の方が成績が高いというのは少し妙な気もします。 アメリカに来て良かったんだなと改めて思いました。日本の高校で押しつけられた勉強をしていた頃の自分はもうどこにもいなくて、今は自分の夢を目指してただがむしゃらになっている自分がいるのです。結局、振り返ってみれば日本の高校で「勉強しなさい」とか「きちんとした服装や態度で生活しなさい」という事にほとんど従わなかった自分が、実は間違っていなかったんだなと思うのです。やりたいことをやって、そのやりたいことを真剣に仕事にするために渡米し、さらに次のレベルを目指して進むなんて、どう考えても日本でエスカレーターに乗って大学へ行き、やりたくもない勉強をし、やりたくもない仕事をしてどうでも良い彼女と結婚する生活とは比べ物になりません。 生きている実感って、こういう小さな事で確認できたりするものです。そりゃあアメリカでの生活は苦労だらけですし、誰かに頼ることも出来ませんが、その見返りに手に入る自由と夢は悔いのない人生を生きる為に必要不可欠な物だと思います。まだまだ上へ行けそうです。このまま走り続けて行けるところまで行ってみようと思います。 #
by Alfred_61
| 2005-05-05 07:04
| 日記
音楽は人生と同じだと思います。必ず始まりがあって、必ず終わりがある。僕たちに出来ることはその限られた時間の中でどうやって人生を生きるかを選ぶことしかありません。一度生きた時間はどうやってももう一度生き直すことは出来ません。僕の音楽には西洋音楽に強く根付く再現部(一度聴いた音楽がもう一度同じ形で現れる)がほとんど存在しません。恋人と過ごした甘い一時も、苦悩の中で過ごした長い夜も、今になってもう一度その瞬間を生きたいと思っても、それは叶わないことです。 もう数年間こういうスタイルの音楽を書いていますが、特にこれが強く表れたのはPercussion Suite(打楽器組曲)です。アメリカに来て随分仲良くなった双方打楽器奏者の日本人とアジア系アメリカ人のカップルの為に書いた曲ですが、沢山の種類の打楽器を二人の奏者が演奏するというちょっと普通とは違う編成です。楽章は二つあり、それぞれ違ったリズムを持っています。 この曲は全体で17分もあるのですが「再現部」らしきものが出てくるのはたった一回だけ。それも、最初に聴いた音楽がかなり変化して出てくるのでほとんど気づきません。人生と同じように、始まり、進み、そして終わるというとても儚い曲になったと思います。一瞬だけ美しく咲き乱れ、すぐに消えてゆく桜の花を好む日本人の感覚と、打楽器組曲の雰囲気は似ていると思います。曲の中のどの時点でもそれぞれのフレーズの終わりを常に意識しているような感じさえあります。 この7月に勉強させて貰うジュリアード音楽院のピアノ科教授、フィリップ・ラッサー先生が僕の打楽器組曲を非常に気に入って下さいました。何度も聞いてしまうと先生は仰っていましたが、それも一見長く思える17分の組曲が実はとても儚い響きを持っているからだと僕は思います。今自分が生きているこの瞬間は、実はとても儚く、貴重な時なのです。それを忘れてただ無下に時間を潰し、一度きりの人生をその辺に捨てるような人間を僕は理解しません。せっかくの人生です、この貴重な時間を楽しんで悔いのないように生きたいものです。 #
by Alfred_61
| 2005-05-03 19:45
| 日記
最近コネとかってこうやって出来るんだなと思った出来事がありました。それは僕の作曲の先生に先生の一番最近演奏された曲の録音をCDにして欲しいと言うものでした。その一件は完全に個人的な物で、責任もへったくれもないものだったため、僕としては別に本腰を入れてお金をかけて綺麗なレーベルなんかを作る必要はなかったのですが、何となく本気で時間をかけて良いものを作ってしまいました。 次の日に先生にCDを渡したら非常に喜んでくれました。よく考えてみたら、人から「こいつなら他の人に推薦しても良い」と思われるきっかけって、ただの一瞬に起こることではなく、日々の行いや心配りが積み重なって「信頼」になるのではないかと思いました。人と人との繋がりってそういう形で繋がっていくのではないでしょうか? 好きな人がいたとしても、その場だけ着飾ってネコを被って接していてもいつかは本性がばれる訳ですし、本当に相手を大切に思うなら自分が偽りの自分を見せていたことがばれたときを考えると罪悪感でそんなこと出来ないと思います。良く「結婚したら突然変わった」などという人がいますが、それって完全に偽物の愛だと思います。都合良く利用されただけにしか聞こえません。 普段の小さな気配りや行動は、幾ら取り繕うと思ってもそう出来ない事が沢山あります。そういう所で人をしっかり判断すれば、その人が尊敬できる人間であるかどうかなんてすぐに分かると思います。「やろうと思えば出来る」と良いながら普段はだらけきった生活をしている人が本当に何かを出来るとはどうしても思えません。本当に出来る人間は常にそれをやっているものです。「勉強しようと思えば出来る」とか「そんな曲練習さえすれば弾ける」とか言う人は僕は大抵信用しません。 確かにしっかり計画して繕ったデートもそれなりに意味はありますが、それよりも普通に家で話をしている時や食事をしているときにふと相手を思いやれる人こそ、本当にすばらしい人だと思います。取り繕ったデートを出来る人が普段から気を配れるかは必ずしもYESではありませんが、普段から気を配れる人は必ず取り繕ったデートもうまくやれると思います。そういう感じで人からの信頼って生まれるのではないでしょうか。「オオカミが来たぞー」という話と同じで、普段の行動が他人からの信頼になると僕は思います。 #
by Alfred_61
| 2005-05-02 15:22
| 日記
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